¶1キリスト教の信仰を擁護する ことは可能でしょうか?優れ たキリスト教弁証論とはどの ようなものでしょうか? そして、キリスト教を自ら 擁護することによって形成さ れるとはどういう意味でしょ うか?ジョン・ネルソンです 。今日の「アンビリーバブル 」では、メアリー・ジョー・ シャープさんと一緒にこれら の疑問を探ります。メアリー さんは、『WhyIStillBelieve』や 『DefendingtheFaith』など、 数多くの著書があります。 メアリーさんはまた、 オープンで関係性のある会話 を通して人々が信仰を探求 するのを支援する非営利団体 、サーチ・ミニストリーズの 戦略的イニシアチブの ディレクターでもあります。 メアリー・ジョーさん、「 アンビリーバブル」に再び お越しいただき、ありがとう ございます。 ああ、皆さんとまたご一緒 できて本当に嬉しいです。お 招きいただきありがとう ございます。 今日は、皆さんからそれほど 遠くないところから参加して います。オレゴン州ニュー バーグにあるジョージ・ フォックス大学でC.S.ルイス のカンファレンスに参加して います。今、どちらに いらっしゃいますか? ええ、皆さんのいる場所の 近くに住んでいます。 オレゴン州ニューバーグに 住んでいます。つまり、 私を直接見たことがある ということですね。そうす べきでは ないのは分かっているけど、 後でコーヒーでも飲みに行き ましょうか。ええ、私は あなたのすぐ近くに住んでい ます。ジョージ・フォックス は私のコミュニティにあり ます。 ええ、そして、西海岸のその 文脈は、アメリカの他の地域 よりも宗教的ではないと私 たちは考えがちだと思います 。それがあなたの物語に関係 しているのでしょうか。 あなたの作品を知っている人 は、あなたが常に信仰深い人 ではなかったことを知って いるでしょう。では、あなた の背景を少し教えていただけ ますか? ええ。ええ、では、簡単に、 その点についてお話しします 。私は自分の物語を共有して いるときに、この地域、特に オレゴン州は少し宗教的では ないのかどうかについて自分 で調べ始めました。そして、 それはこの地域の伝統であり 、私たちは宗教にあまり参加 しておらず、非常に長い間 そうでした。そして、それが 私が育った地域で、私の背景 は、私は教会で育ったわけで はないということです。両親 は私が覚えていないほど幼い 頃に教会を離れました。 それで、彼らは私を教会なし で育てました。しかし、両親 が私に植え付けてくれたのは 、私が生きる世界と宇宙 に対する深い畏敬の念と驚き でした。そして、芸術、特に シェイクスピア劇のような ものへの深い理解です。私は よく冗談で、「 シェイクスピア劇を観すぎる と、人生の目的や意味とは何 かという問いに直面せずに はいられない」と言うのです が、それが私の人格形成の 背景でした。自然への深い 感謝の念。父は宇宙と コスモスが大好きで、カール ・セーガンの大ファンでした 。そのため、私は常に「私 たちは何者なのか、この惑星 で何をしているのか」という 問いにさらされていました。 そして、10代後半になると、 私はそうした問いを自ら問い 始めました。高校の音楽教師 が聖書をくれて、「大学に 進学したら、難しい問いに 直面するだろう。その時、 この本に目を向けてほしい」 と言ってくれたのです。 そして彼は、まさに私が 難しい疑問を抱えていた人生 の適切な時期に私にぶつかっ てきたのです。それで私は彼 を尊敬しました。実は若い頃 、私自身も音楽教師になった ことがあります。それで、 ええ、私は聖書を読み始め、 善悪や、私の正義と不正義の 感覚、そして美について、 つまり美はどこから来るのか 、なぜ重要なのか、なぜそれ が私をその瞬間以外の何かに 呼び寄せているように見える のか、といったことが理解 できるようになりました。 若い私の心の中では、 あらゆるものが形作られてい ました。そして、私は多くの 人とは正反対の話をします。 私は大学に進学し、初めて 信仰を探求し始めました。 そして、私の背景にある無神 論に挑戦し、宗教はそれを 必要とする人や杖を必要と する人のためのものであり、 私には必要ないという考えに 挑戦しました。ええと、私は キリスト教について非常に 未熟な見解を持っていました 。それで、実際に若い信仰を 育み始めたのは大学時代で、 最終的にイエス・キリストを 救い主として信じることを 告白したのはその頃でした。 ええと、つまり、あなたが キリスト教の家庭で育た なかったことが、これらの 大きな問題を探求する上で 最終的に有利になったと思い ますか?なぜなら、あなたは 既成の答えを持ってこれらの 問題に臨まなかったからです 。ええ、ある意味では、それ は私にとって役に立ったと 思います。年を 取るにつれて、私の背景には 文化的なキリスト教がなかっ たからです。それで、教会の 伝統と、ええと、聖書や神学 を混同しないようにするのに 役立ちました。ですから、 おそらく私にはなかったこと がいくつかあると思います。 そして、それが私に役立った と思うもう一つのことは、 ええと、私は、キリスト教徒 ではない他の人が抱えている 疑問を非常に明確に簡単に 見ることができるということ です。私は同じ立場にいまし た。同じように感じました。 私はキリスト教の主張の いくつかについて、そのよう に探求してきました。 ですから、それは私を不快に させたり、驚かせたり、その ように防御的になったりする ことはありません。 ええ。その点では、C.S. ルイスのような人物も 思い浮かべます。つまり、彼 はキリスト教の家庭で育ち ましたが、すぐに無神論者に なりました。そして、それが 彼のキリスト教の擁護をより 説得力のあるものにしたと 思います。なぜなら、彼が 提起しているどんな質問で あれ、それらは彼自身が無神 論者だったときに抱いていた 質問なので、彼は本当にその 核心に迫っているように感じ られるからです。それは彼に 、より本物らしい方法で それらに答える方法を与えて います。しかし、あなたは 防御的な態度について、 そしてあなたがこれらの質問 に触れてきたことで、防御的 になることが少なくなったと 述べました。しかし、私は、 時々弁証論は悪い評判を 受けることがあると思います 。つまり、私たちは皆、自分 の信仰を理解しようとして いるのですが、弁証論 について考えるとき、多くの 人はインターネット上の、 論理と理性で人を論破しよう とするディベート好きの人 たちを思い浮かべます。それ は、Unbelievableで私たちがやっ ていることとはあまり違い ます。私たちは、これらの 重要な問題について、本当に 探求的で、友好的な議論をし たいと思っています。現在の キリスト教弁証論の現状と、 ディベート好きの人たちの ようなアプローチには問題が あると思いますか? ええ。つまり、あなたが言っ たように、弁証論を実践して いる人全員がそうではないの ですが、弁証論はディベート 好きの態度につながるという 文化的感覚や感情が確かに あると思います。そして、 それは私が社会学的な研究を したことではありませんが、 長年にわたって何度も、「 あなたは嫌な弁証家ですか? 」という質問をされてきまし た。ええと、会議の参加者や 教会の指導者、牧師から そういうことを言われたこと がありますし、仕事の面接で も話題に上りました。それで 、そういう質問が何度も 繰り返されるのを見ると、 明らかに人々が気づいている パターンに基づいた評判が あるということが、本当に 印象に残りました。それで、 ええと、私にとっては個人的 な経験談ではありますが、 確かに、弁証論は議論に勝つ こと、討論に勝つことであり 、相手のことを気にかけず、 自分の主張を気にかけること だという感覚があると思う ほど、私はそういうことを耳 にしてきました。ええ。 それで、私はそれが心理的に どこから来るのか疑問に思い ます。なぜなら、それは信仰 に対する不安から来ている ように思えることがあるから です。それで、真実を知って いる、私が正しくてあなたが 間違っている理由をすべて 挙げる、というような、 ある種の虚勢を張る必要が あるのです。だから、多くの 人は、文学に触れて、早い 段階で自分の信仰を理解しよ うとして、「ああ、すべての 答えがわかった」と思うかも しれません。でも、それは 実際には一種の見せかけです 。そういう直感に何か根拠が あると思いますか? つまり、私は心理学を それほど深く掘り下げてい ませんが、公の場で弁証論を している人を見ると、他の あらゆる公のスピーチ形式と 同様に、特定のタイプの性格 の人を引き付ける傾向がある と言えます。そして、ほら、 虚勢を張るような見せかけは 、公のスピーチをする人が 好むことで知られており、 そういうタイプの人を 引き付けることが知られてい ます。だから、それはわかり ます。しかし、私たちが生き ているデジタル インターネット時代、多くの 人が知っているように、 インターネットが道徳的な 憤りを奨励していること について私たちは何度も話し てきました。インターネット のアルゴリズムは、こうした 絶対主義的な主張や「我々対 彼ら」といった攻撃的な発言 を拡散し、それを優遇する 傾向があります。そのため、 繊細で思慮深い弁証論よりも 、そうした攻撃的な弁証論を 目にする機会が多くなります 。 繊細で思慮深い弁証論は、 アルゴリズムの上位には あまり表示されません。 つまり、私たちが弁証論を どのように捉えているかは、 議論や勝利、ポイント獲得 といった感覚を優遇する アルゴリズムによって私たち に伝えられているものかも しれません。ですから、私 たちは弁証論の全体像を捉え ているわけではないのかも しれません。 あなたは現在、福音派哲学会 に論文を執筆中で、信仰の 観点からこれらの問題に 取り組むことが、私たち自身 の形成にどのような効果を もたらすかについて、より 肯定的な見解を示しています 。また、弁証論が実際に人を どのように形成するか についても論じています。 執筆中の論文におけるあなた の議論の概要を少し教えて いただけますか? ええ、もちろんです。 三段論法を教えるつもりは ありませんが、一般的な考え をいくつかお伝えします。私 自身は、弁証論的な議論を するとき、つまり、あなたに 議論をする場合、必ずしも「 この議論でどれだけあなたを 説得できるか見てみよう」と は考えていません。つまり、 どれだけの詳細を述べ、どれ だけ説得力を持たせることが できるか、ということです。 私にとって、議論はむしろ「 私はこれを発見しました。 そして、これは私の人生に どのような影響を与えてい ますか」というようなもの です。ですから、私にとって 弁証論はまず私自身を形成 する上で非常に重要な役割を 果たし、今ではそれを他の 人々と共有しています。弁証 論の文献全体を見渡すと、弁 証論が実際には複数の方向に 流れることができるという点 について、文献にギャップが あることに気づきました。 つまり、私たちは弁証論を私 から他の人に流れるもの として扱ってきました。人々 は疑問を持ち、これが質問で あり、これが答えです。これ が外向きです。私は議論の 導管です。しかし、議論が人 自身、つまり弁証者自身に内 向きに作用するという方向性 についての文献はあまり見 られません。ですから、私は あなたと議論を共有したかも しれませんが、その知識の中 で生き、議論の空間の中で 実際に生きている中で、その 議論は私自身の人生でどの ような役割を果たしてきたの でしょうか。例えば、道徳的 な議論、つまり客観的な道徳 的価値と義務が存在する という議論があります。これ は、完全に善なる神とその 本質に基づいています。 ですから、私はその議論を 共有できますし、実際にそう しています。しかし、道徳的 な議論で本当に心に響いたの は、完全に善なる神が存在 するという現実に対して、私 自身が自分の人生でどのよう に反応しているかということ でした。これは実際には少し 寄り道なのですが、私が クリスチャンになる前に 本当に心に響いたことの一つ は、「ああ、もし完全に善 なる神が存在し、私がこの 存在に対して道徳的な責任を 負っているとしたら、それは 悪い意味ではなく、むしろ、 神が私をこのように創造し、 私がこのように作られたのだ としたら、私はそれにひどく 及ばない」ということでした 。だから、まず自分の人生で どのように議論が機能して いるかを見て、その立場から 、今度は他の人に波及して いくのですが、私が思うに、 議論はまず私自身を形成する ものでなければならず、 それから他の人に渡して議論 するべきではない、というの が考え方です。 ええ、あなたが話している間 に頭に浮かんだ言葉は、具現 化という考え方です。ヨハネ の福音書では、イエスが「 わたしは道であり、真理で あり、命である」と主張して いると書かれています。それ は、イエスは人間なので、 とても奇妙な言い方ですよね 。真理を、私たちが自分自身 の外にあるものとして同意 するのではなく、実際には 深く関わっていて具現化され た、非常に個人的な方法で 考えるのは奇妙です。歴史上 の生きている人物を指して、 「これが真理だ」と言うこと ができるのです。彼は真理 です。「このアプローチには 具現化の感覚があると思い ますか? もちろんです。そして、それ は次のことにつながると思い ます。つまり、あなたが言っ たことから2つの考えが 浮かびます。1つは、 抽象的な真理、つまり理論や 知識を追い求めているのでは なく、あなたが言ったように 、私たちは実際に真理を人格 として追い求めているという ことです。つまり、私たちは 真理との関係を追い求めて いるのです。そしてもう1つ は、ペテロの手紙第一3章、5 節15節から弁証家信条を引用 する箇所です。この節を周囲 の文脈に戻すと、ペテロは、 キリスト教徒に対して実際に 敵意を抱いている人々の グループに対して、「彼らを 恐れるのではなく、むしろ、 主を畏れ、キリストを心の中 で主として聖別しなさい」と 言っているのがわかります。 「それは、まず神にあなたを 形作ってもらい、まず神が あなたに働きかけ、それから 、あなたの中にある希望の 理由について、いつでも答え や弁明ができるように準備し ておくということです。 ですから、あなたは今、神を 畏れ、人ではなく神を恐れて いるので、これらの議論を 研究してください。あなたが 神を信じているのを見て、 あなたが誰であるかを見て、 それについて尋ねられたとき に、『ええ、これが私の希望 の源です』と言えるように、 準備しておいてください。」 そして、彼はさらに、行動や 態度、性格に関するフレーズ で、「これを優しさと敬意を もって行いなさい。あなたは 良心を清く保つべきです。 そうすれば、あなたは悪事を 働いたと非難されることは なく、正当に非難されること もなく、むしろ、あなたは 善行を行ったために実際に 苦しむことになるのです。」 と付け加えています。「 そして、使徒信条を常に弁明 、つまり弁護を行う準備をし ておくことが重要だと思い ます。そして、それを神 によって形作られた人から 発せられるものという文脈に 戻すのです。単に他の人に 渡すための議論を組み立てる のではなく、人々はあなたの 中に何か印象的なものを見て 、『これは何ですか?この 希望は何ですか?』と尋ねて くるはずです。 例えば、ペトロの手紙一で、 弁明、つまり弁護、あるいは あなたの中にある希望の理由 について語られている箇所を 考えてみてください。つまり 、その聖句は、その弁明が どのようなものかを想像する ように私たちを促していると 思いますか?明らかに、今日 では弁証学は特定のもの として認識されています。 つまり、議論を学び、信仰 について深く考えるという ことです。しかし、それは 必ずしもそうである必要は なく、もっと深く個人的な もの、つまり『これが私の 世界の見方です。これが 美しいのです』というような ものでも良いのではない でしょうか。そして、私が 見る世界の良いビジョン。 ええと、これらは私が信仰 というレンズを通して得た 経験です。つまり、議論で なければならないのでしょう か、それとももっと広範な 理由があっても良いのでしょ うか?わあ、 それは素晴らしいですね。 ええ、両方だと思います。 そして、これらの議論を研究 するとき、聖書で使われて いる弁護法はいくつかの箇所 で使われています。それは、 より厳密な宣言または理解を 意味しますよね?パウロは 弁護する際にそれを使ってい ます。そして、ええ、ペテロ もそれを参照しています。 ですから、それは厳密で、 堅固です。しかし同時に、 あなたが獲得する知識 において堅固である必要は ありません。神があなたに 影響を与えるという知識 において堅固であることも できます。つまり、あなたが どのような人間になるか ということです。そして、弁 証論の一部で、あまり強調さ れていない、あるいは 見落とされているかもしれ ないのは、人々が「私は神を 信じているのは、私はすべて のものを持っているからだ」 と言うことです。これらの 議論、この議論の山。だから 、たとえほんの小さな穴が あっても、この部分はわから ない。つまり、私はまだ これらの議論をすべて持って いる、ということだ。「 ええと、バケツは良い例では ないかもしれませんが、 とにかく、それは以前にも 聞いたことがあります。でも 、それは信念です。ただの 信念です。ですから、これが 上昇につながる知識であり、 私はこれが真実だと言います 。しかし、その知識は聖化の 過程、つまりキリストのよう になる過程でどのように機能 するのでしょうか?なぜなら 、聖書を研究するとき、神と 交わるとき、祈るとき、 それらは個人的なレベル、 形成的なレベルであなたに 影響を与えるはずだと私たち は知っています。なぜなら、 目標はキリストのようになる ことであり、神がそのように 働かれるようにすることだ からです。ですから、これら の議論を擁護する議論を見る と、これらの個々の議論は 実際にどのようにあなたに 影響を与えているのでしょう か?そして、そうですね。 ある 学生が会議で私に尋ねたこと があります。ええと、私が 正しく理解しているかどうか わかりませんが、彼は カラーム宇宙論的議論は あなたの霊的生活にどのよう に影響しますか、というよう なことを言いました。彼は そのような言い方をしたと 思います。 良い質問です。一緒にいた 人は、「また弁護論者がいる 」と言って、こう説明し始め ました。「ええ、ええと、 始まるものすべてには原因が あります。宇宙が始まった ので、宇宙には原因があり ます。」そして、その子は「 ああ、ああ、それはわかっ てるよ」という感じで説明し ていました。そこで私は、「 あなたが聞きたいのは、それ が私にとって日常生活で どういう意味を持つのか ということだと思う」と言い ました。それで、私が彼に 説明した理由をすべてあなた に伝えるつもりはありません が、少し先に進んで、「 つまり、宇宙に原因があり、 その原因がキリスト教の人格 神であり、理性的で、目的が あり、知的な神であるならば 、私の存在はすでに目的づけ られているということです」 と彼に伝えました。「私は ここにいるべきなんです。私 には目的があり、自分の目的 を探し続ける必要はありませ ん。なぜなら、神はすでに私 をこの地球に創造して くださったからです。神は私 のために計画を立てて くださいました。私は神の 計画された創造の一部です。 これが、それが日々の私の 生活に本当に影響を与えて いるのです。それは、神 における私の アイデンティティの一部を 知っているという自信のよう なものです。つまり、 議論そのものだと思いますか 、それとも、認識論的徳 について話すのが今流行って いると思います。つまり、私 たちが示すかもしれない徳、 あるいは知的徳です。つまり 、宗教哲学でさまざまな議論 を探求するときに、好奇心や 寛容さといったものです。 形成的な役割を果たしている のは議論でしょうか、 それとも、これらの議論に 取り組み、それらをじっくり 考えるときに実際に行って いることでしょうか、 それとも、またしても、この ような両方の状況でしょうか ? ええ、私はそれが大好きです 。ええ、それは両方の状況 ですが、あなたが話している ことをもう少し掘り下げてみ たいのですが、誤解されたく ないからです。議論を知って いればそれが人生に影響を 与えるとか、影響を与えると 言っていると思われたくない んです。それは違います。 物事を知っていても、それが 人生に実際には影響を与え ないこともあります。それで 、私が読んでいる学者がい ます。たくさんの学者を読ん でいますが、特に印象に残っ ているのは、ウィリアム・ ウッドと、分析神学の分野で 同じテーマについて書いた 学者です。分析神学を生き方 として捉え、深く分析的に 学ぶことが時間とともにどの ような影響を与えるか について書いています。 そして、哲学を生き方として 論じた、より古い学者 ピエール・アドもいます。 技術的な詳細や精神的な修行 に踏み込まなくても、この パターンを形成するという 感覚があります。この学習 パターンを形成する、つまり 、このパターンに関わる規律 は本質的に精神的な規律です 。なぜなら、それらは注意力 を必要とし、議論への注意力 を養うことを必要とするから です。このような議論を研究 するには、議論の透明性が 必要です。私の議論のどこが 良くないのか?私の考えの どこが間違っているのか? そして、どこを修正する必要 があるのか?そして、自分の 議論に対する他人の反論を 真正面から受け止めることを 学ぶのです。私の議論 に対する最も強い反論は何 ですか?そして、私はそれに どう対処しましたか?この ような実践を行うことは、 たとえ伝道的な結果がなくて も、個人にとって形成的な 価値があります。なぜなら、 神を学び、真理を学ぶことへ と何度も導く行動や習慣を 学んでいるからです。そして 、直接「ああ、これがこれを 引き起こした」とは言わない かもしれませんが。「それは 一種の横向きの形成のような もので、真実に向かっている と、横から襲ってくるものも あるんです。例えば、娘 に対してあまり些細なことで 腹を立てないようにする話が あります。それは、神をある 特定の視点から見ることで、 時間が経つにつれて変わって いったことです。ですから、 こうした研究や、深い分析的 な研究を行うために必要な ことは、あなたが言ったよう に、実際に真実を知ることを 目標としているなら、形成的 な価値を持つことができます 。真実を知っているように 見せかけるのではなく、真実 を知ることに非常に真剣に 取り組んでいるなら。 ええ、そして、スティール・ マニングについて話していた とき、友人の議論の最も強い 形を提示するというのは、 誰かを愛することの一部の ように思えます。つまり、 相手を理解したいと思ってい て、信頼の解釈学のような もので会話に臨んでいる ということです。」寛大さの 解釈学。相手の反対意見の 核心に迫ろうとしている、 つまり、お互いを理性的な 人間として真剣に受け止めて いる。だから、人を愛する 本当に良い方法のように思え ます。イエスは歴史上、 明らかにユニークな人物です が、イエスが弁証論に関わっ ていると思いますか、 あるいは、イエスの宣教から 、信仰を適切に擁護する方法 について何か学ぶことが できると思いますか? もちろん、そうです。 彼は、目の前にいる人とその 人が必要としていることに 非常に集中しています。「何 をしてほしいですか?」と 尋ねるところまでです。 そして、私はそれが大好き です。なぜなら、彼はただ やって来て、「これが現実だ 。これが真実だ。確かに真実 は痛いが、私はそれをあなた に伝える」と言うのではなく 、「そうでしょう?正直言っ て、もし誰かにそうする権利 があるとしたら、それは イエスです。でも、彼は私 たちに別の道を示してくれ ます。彼は目の前の人が実際 に何を必要としているのかに 注意を払っているんです。 そして、彼の議論はそれを 反映しています。それは両方 の側面で見られます。傷つい た人や疎外された人に対して 、優しく、とても親切で、 とても忍耐強いだけでなく、 金持ちの若い支配者、金持ち の青年のように、お金の問題 を抱えているように見える人 に対して、問題で対峙する 場面も見られます。イエスが 彼に救いに関する問題点を 指摘すると、彼は悲しんで 立ち去ります。また、イエス は宗教的な偽善者や、「私は とても義理高く、とても 正しく、何をすべきか分かっ ている、ありがたいことに私 は他の人たちとは違う」 という外見を装っている人 たちに対して、非常に対決的 な態度をとる場面も見られ ます。彼はとても直接的で、 もしかしたら彼は神なので、 少し攻撃的ではありませんが 、とても直接的です。彼は 発言において、宗教的な偽善 者とコミュニケーションを とる方法において、非常に 力強いです。なぜなら、彼ら が人々に与えている損害の ためです。彼はこう言います 。「ほら、あなたたちは行っ て話をし、人々に使命を与え ているように、すでに地獄に いる人々の数を2倍にして いるのです。」「かなり 力強い言葉ですよね?彼は とても協力的で、もしかし たら、あるいは単に注意深く 、目の前の人に気を配って いるのかもしれません。 そして、そこから学ぶべき ことはたくさんあると思い ます。自分の主張を一方的に 押し付けて「あなたは間違っ ている」と言うのではなく、 相手が何をしているのかを よく見極める必要があるの です。相手が何を必要として いるかに注意を払う必要が あるのです。相手は必ずしも 私の厳密な議論を必要として いるわけではありません。 時には、その議論が私の人生 にどのような影響を与えてき たのか、私がどのように生き ているのかを知る必要がある のです。そうして初めて、 議論について話す機会が得 られるのです。ええ、 彼は相手が自分にどう接する かによって、人それぞれに 異なるアプローチをしている ようです。そして、それは「 愚か者にはその愚かさに応じ て答えよ、さもないと愚か者 は自分の目には賢いと思われ てしまう」という諺を 思い出させます。しかし、 同時に、答えてはいけないの です。愚か者はその愚かさ ゆえに愚か者。つまり、特定 の状況において、こうした 議論に参加するのに適切な 時期なのか、あるいはこの人 が誠意をもって参加しようと しているのかを見極める必要 があるということです。 そして、私たちも彼らと誠意 をもって関わろうとしている のでしょうか。特定の瞬間に は、特別な識別力が求められ ます。ええと、歴史上の他の 人物についてもお伺いしたい のですが。例えば、教父の ような人々ですが、そこに このような形成的な アプローチが見られますか? というのも、私が神学を勉強 していたとき、よく聖トマス ・アクィナスの祈りを唱えて いたのを覚えているのですが 、勉強の前に唱える彼の祈り では、彼の神学的探求全体が 、ある種の霊的生活と 結びついているように見え ます。キリスト教の歴史や キリスト教の知的歴史 において、そのようなことが 見られますか? ええ。ええ、見られます。 そして、私は、この中で 興味深いと思ったのですが、 ええと、学者のウィリアム・ ウッドは、伝統的な分析神学 を振り返っていて、ええと、 こう言っています。「多くの 人が、分析神学はとても退屈 で、私の霊的生活とは何の 関係もないと言っています。 」「それで彼はこう言ったん です。『ちょっと待って。 アンセルムスを見てください 。11世紀の修道士で、神の 存在に関する存在論的証明で 有名な人です。彼はそれを『 プロスロギオン』という短い 著作に記しています。 ほとんどの人が気づいてい ないのは、この作品全体が神 に宛てられたものなんです。 そうでしょう? これが彼の『 プロスロギオン』です。 ええ、彼は 神に宛てたものです。ええ、 そうです。それで彼は、 面白いことに、この考えが頭 に浮かんだのですが、現実的 ではないかもしれませんが、 アンセルムスは神の背後で 推論しているわけではない、 ということですよね?そんな ことは不可能ですが、ええ。 彼は神の前で、自分が何をし ているのかを完全に理解した 上で、一種の瞑想や祈りの ように推論しているのです。 そして、それは、いわゆる 霊的生活や厳密な思考生活は 、それらは分離する必要は ありません。実際、初期の 教父たちはそれらを分離して いませんでした。そして、 それは私たちにとって重要な 例だと思います。ええと、 トマス・アクィナスにも見 られます。ええと、特に 先ほどスティール・マニング について話したように、彼は 大きくて強い反論を提起し、 それからそれに答えます。 そして、それは彼が行って いる神との対話であり、 ええと、それらを分離する 必要はありません。そして、 私が初期の教父たちを愛して いるのは、私たちがそれらを 分離してしまったからです。 そして、キリスト教において さえ、私たちが近代主義の 考え方や、フランシス・ シェーファーの知識の領域 における上位層と下位層 といった考え方にどれほど 影響を受けているのか、私 たちがある種の知識を他の 知識から分離するほどにそう しているのかどうか疑問に 思います。つまり、私たちの 霊的生活と理性的生活を分離 することは、ええと、それは あり得ないことです。そんな ことはできません。それらは 常に一体であった。だから、 初期の教父や中世の教父の中 にもそれが見られる。 そう、聖トマス・アクィナス の著作を読むのはとても 面白い。彼の著作は『神学 大全』で、あなたが言うよう に、彼はこれらの反論を提示 しているが、どんな立場 に対しても反論を読み上げる だけで、『神学大全』を読み 始めると、「おやおや、彼は キリスト教の真理に対して 非常に強力な議論を展開して いる」と思うので、本当に 面白い。「そして、彼が これから反論をすべて行う ことになるとは気づいてい ない。ええ、本当に。 これは鋼鉄の精神の 素晴らしい例です。 そして、聖アウグスティヌス も思い浮かびます。彼の『 告白録』は、まるで精神的な 自伝のようで、とても奇妙 です。彼は神に祈っています 。アマゾンが神に宛てた手紙 のように、彼は神に宛てて 祈っているのです。しかし、 彼はただ哲学しているだけ です。そして、神に、あなた は時間の中にいるのか、 それとも時間の外にいるのか と尋ねています。ええ、 そして、現代の視点からその テキストを読むのは非常に 奇妙です。なぜなら、私たち は頭と心と魂を切り離して 考えることが多いと思うから です。ええ。 では、それはあなたにとって 個人的にはどのようなもの ですか?あなたは、この種の 奉仕活動に専門的に関わって いますから。ええ、どのよう にして、私たちのこれらの 異なる側面を融合させている のですか? ああ、ええ。たくさんの方法 で。私にとって最も重要な 方法は、すでに述べたこと ですが、自分の作品や議論 についてじっくり考え、祈る ことです。自分の議論だけで なく、議論そのものについて です。そして、議論を 取り出す前に、例えば復活の 証拠とは何か、最小限の事実 の議論などについて、神に 祈り、「神よ、これは私 にとって何なのでしょうか? 」と問いかけることは、重要 な習慣だと思います。「 そして私個人としては、そう することで私の視点が変わり ます。簡単な例を挙げると、 悪の問題です。悪の問題 に対するすべての答え、悪の 問題からの議論、反論を 本当に深く掘り下げ始めた とき、以前は「うわあ、この 反論は本当に夜も眠れない ほど難しい」と言っていまし たが、個人的には、世界中の 誰もが罪の重荷、悪の重荷の 下で苦しんでいるのを見始め たのです。そして、私たちは 皆、この問題に一緒に 取り組んでいるということを より深く理解し始めました。 人々がその瞬間にそのように 行動する理由や、その原因、 あるいは、私たち全員が創造 の破壊の影響を受けている ことなど、さまざまな理由が あります。そして、そうです 、それは人類全体に影響を 与えているのです。」だから 、悪の問題は、以前は 必ずしも気づかなかった他者 へのある種の思いやりを私に 育んでくれた。それが、私が この問題と結びつく方法だ。 私はそこに座って、悪の問題 についての討論で誰かと議論 することができるし、旧約 聖書の神と悪についての討論 もしたことがあるが、私 にとって本当に重要なのは、 最終的に論理的に答えたか どうか、議論の抜け穴を すべて塞いだかどうかだけで はない。それはむしろ、「 では、これは人間の生きた 経験の中でどうなのか? ええと、これは何をするのか ?」ということに関係してい ます。そしてそれは、私が死 をどう見るか、長い苦しみを どう見るか、病気をどう見る かということに大きな影響を 与えています。そしてそれは 、私が痛みの中に留まり、 苦しんでいる人々と共に 苦しみの中に留まることを 助けてきました。彼らに すべてに対する答えを与えよ うとするのではなく。ええと 、あなたが 悪の問題について話していた とき、私はよく「 アンビリーバブル」に出演し ている哲学者、ジョシュア・ シーチャローワーのことを 思い出しました。彼は、彼が 模範的なオデュッセイアと 呼ぶものについて話してい ます。それは魂の形成の一 形態です。つまり、神が悪を 許す理由の1つは、私たちが それに応じて魂を発達させる ためであるという考えです。 なぜなら、悪がなければ、 勇気や、ええと、その悪に 対応できるような慈悲 といった二次的な美徳は存在 しないからです。そして、彼 が話すのを見るのは本当に 興味深いです。彼はよく、 分析的なプレゼンテーション で、外に出て道徳的な模範と なり、魂を磨くように 呼びかけているのは、あなた が展開している議論の良い例 だと思います。 ええ。それも重要だと思い ます。ただ「よかったね」と 言うだけではなく、議論を 深く心に刻むことが大切です 。そして、道徳的憤慨の アルゴリズムに苦しむ世代 において、世界の悪に対して 過剰に反応しないようにする のに役立つと思います。私 たちが経験している議論とは 何か、実際の悪とは何か、善 とは何か、なぜ人々はその ように行動するのかについて 、深く考えるのに役立ちます 。悪の問題には、必ずしも 議論の対象にならない多くの 影響があるかもしれません。 だから、それは素晴らしいと 思います。彼が最後にそうし ているのは素晴らしいと思い ます。なぜなら、なぜそれが 人々には当てはまらないのか 、私には理解できないことが あるからです。そして、それ が私たちが弁証論を魂の形成 ではなく内容の習得として 考えているときに経験して いる分離です。ええ、それは 私たちがキリストにあって 自分自身を形成できる一つの 方法であり、ええ、それは 美しいことです。それは 美しい成果です。 ええ。あなたが習得という 言葉を使うのは興味深いです ね。なぜなら、時々、文学 作品に目を通すと、主題の 習得を感じて、「自分の視点 が正しいことを証明でき なければならない」と感じる ことがあると思うからです。 「そして、そういうことが、 パウロが語っているこの考え につながるんです。つまり、 知識は人を高慢にさせるが、 愛は人を成長させる、という ことです。知識は消え去る ものですが、愛は残るものな のです。ですから、この議論 は、あなたが提唱している弁 証論へのアプローチは、人間 全体に関わるものであり、 議論を暗記することと同じ くらい愛に関わるものである 、ということのように感じ ます。そして、私たちは しばしば、その背後にある 高慢さを感じてしまうことが ありますよね。ええ。ええ。 学者ウィリアム・ウッドは、 それを「正しいように見せ たいという欲求」と「正しい という欲求」と表現してい ます。そして、正しいという ことは、適切な意味で、 つまり、愛から、敬意から、 ただ正しいという欲求からで はなく、正しいということな のです。それが「正しいよう に見せかける」部分です。 そして、内容の習得は、人間 の傲慢さに関わる「正しい ように見せかける」ことに つながる可能性があります。 そうですよね?ですから、 これらを見ると、私は世界を 見ているのです。それは、 一般的に弁証論的な キリスト教徒、特に公の場で 発言するキリスト教徒を 振り返ってみると、「 なるほど、この生き方、 キリスト教は、あなた方を 正しくし、真理を持っている と言うが、現在の問題は、 それはあなた方を善良にする だろうか?」ということだ。 「そして、それは私たちが弁 証論において考慮しなければ ならないことだと思います。 これらの議論は私を良い方向 に導いているでしょうか? ええ。 そして、それが目標の一部 です。信仰に対する 反論や信仰上の問題点を厳密 に考え抜く方法で、自分の 信仰を他の人と分かち合い たいと心から願う人もいる でしょう。ご存知のように、 私たちは皆、神の現実には 及ばない神のモデルを持って います。しかし、同時に、 これを本当にオープンで、 関係性を重視した、会話的な 方法で行いたいという気持ち もあります。しかし、私たち 全員がかなり不十分である という認識もあります。 ですから、先ほど偽善の問題 について言及されましたが、 以前の「アンビリーバブル」 のエピソードで、あなたが 初めて教会の扉をくぐった ときに教会で偽善に遭遇した ことについて話していました 。キリストの良い証人になり たいけれど、同時に葛藤して いる、と感じている人に、 あなたは何と言いますか? それだけでは実際にそうなる には不十分です。 わあ、そうですね。それは まるでインポスター症候群 みたいですね。ええ、 そうですね。 そして、私が彼らに言いたい のは、教会の偽善の問題に 取り組む中で学んだことの1 つは、救われたとき、イエス はあなたの過去の経験や考え をすべて消し去るわけでは ないということです。イエス はあなたが今いる場所に連れ て行ってくれます。つまり、 キリストのようになることは プロセスです。それは旅です 。瞬間的なものではありませ ん。ですから、 あなたは人間としてまだ失敗 する可能性があります。私も まだ失敗します。ご存知の ように、私は何も完璧にして いません。ただ、人々がどの 段階にいるかを認めなければ なりません。 そして、「 信仰を分かち合いたいのです が、失敗するのではないかと 心配しています」と言う人 に対しては、「 でも イエス様はそれでいいんです 。あなたの心は分かち合う こと。あなたの心は正しい。 イエス様は進んで従う心を 求めているんです。完璧な 論理展開ができる人を求めて いるわけではありません。 だからイエス様はあなたを 受け入れ、あなたが持って いるもの、あなたが今いる 場所であなたを使って くださいます。なぜなら、 あなたは進んで従い、あなた の心は他人に仕えることだ からです。だから人々と話し 、知っていることを分かち 合いましょう。もしあなたが 前に進んで失敗したら、それ はそれでいいんです。私たち は皆、人生で失敗します。 だからそれは私たちの学びの 過程の一部です。それを 受け入れて、自分が知って いることを続けましょう。 もう一度やってみてください 。もしかしたら、知っている ことやアプローチの仕方を 変えるかもしれません。 すべてを正しく言おうとする のではなく、相手の話に もっと耳を傾けることに集中 してみましょう。なぜなら、 相手に注意を払うことで、 あなたは本当に多くの良い ことをしているからです。 あなたは十字架、そして最高 の存在が私たちに仕え、私 たちを愛するために十字架上 で謙遜になったという神の 謙遜さを本当に反映している のです。」人々と話したり、 自分の人生を分かち合ったり 、キリストに見出した善と 人間的な繁栄を分かち合っ たりすることをいとわない 姿勢は、たとえ失敗したと 感じたとしても、神の謙遜の 美しさを反映しています。 そして、決して自分を責め ないでください。とにかく やってみましょう。たくさん のリソースがあります。私も そのお手伝いをする組織で 働いています。どのように 会話をするかのアイデアを 提供しています。私はサーチ ・ミニストリーズで働いてい て、会話のお手伝いをしてい ます。たくさんのリソースが あります。 メアリー・ジョー、この種の 弁証論的アプローチが、 サーチ・ミニストリーズでの あなたの現在の仕事にどの ように当てはまるのか知り たいです。どのように実践 するか、例をいくつか教えて いただけますか? ああ、そうですね。これが私 がサーチ・ミニストリーズで 働いている理由の1つです。 サーチ・ミニストリーズは、 一種の関係性に基づく伝道 ミニストリーで、霊的に好奇 心のある大人が人生と信仰の 疑問を探求するのを本当に 助けようとしています。批判 せずに会話を始めましょう。 議論の議題ではなく、関係性 を築くことを第一に考えます 。私たちの目標は、人々が 人生のどの段階にいるかに 寄り添うことです。夕食の テーブルやリビングルーム、 裏庭でのバーベキューなど、 様々な場面で会話が弾むよう に努めています。そして、 これまで話してきたような ことを実践する友人として、 人々の話をよく聞き、思慮 深い質問をし、人々の霊的な 旅路を神に委ねる友人として 、私たちはそこに現れます。 私たちの組織で神学や弁証学 の訓練を受ける際、目標は 人々の質問に答えられるよう になることだけではなく、 人生を通して、長い道のり、 長い苦難を通して、人々 と共に歩む友人として、 そして私たちが彼らと共に 生きる姿を見てもらうような 人間になることです。パウロ がテサロニケの人々に言った ように、「あなたがたは、私 たちがあなたがたと共に生き 、あなたがたとどのように 接しているかを見ています」 。これがその一つです。私 たちの組織の主な焦点の一つ は、人々が地域社会で、 つまり人々が安心して大きな 疑問を抱ける場所で、 そうした対話を発展させるの を支援することです。そして 、サーチのスタッフとして、 私たちは彼らに長く寄り添い ます。これは、私たちが単に ステージで議論を述べて去る のではなく、皆さんが私たち のことを何も知らないまま 終わるのではなく、実際に 皆さんの生活の一部となり、 長期にわたって皆さんと共に いるという、一種の弁証論的 形成の側面を示していると 思います。ですから、これが 、私が全国各地でこうした 対話コミュニティを設立する のを支援する活動の一つの 方法です。こうした コミュニティでは、長期的な 友情や忠誠心、人格形成が 実際に表れます。つまり、私 たちは人々がそうした対話が できる場所を開発し、同時に 私たち自身の霊的な生活と 成長にも気を配っています。 メアリー・ジョー、あなたは 『信仰を守る』という本を 書いていて、弁証学における 女性の立場について。弁証学 に関して、女性から特に出て くる質問はあるのでしょうか 。ええ、 それは興味深いですね。私が 弁証学を始めて以来、長年 にわたり、最初は違う種類の 質問が出てくるかもしれない と考えたことがありません でした。しかし、私の経験 から言うと、弁証学の カンファレンスを行うと、 女性から「どうすれば、教会 や地元のキリスト教 コミュニティで、知性がない と思われずにこの内容に 取り組めるのか」とよく聞か れます。彼女たちが使う言葉 は「男性や他の人の前でバカ に見られたくない」です。 そして、「もう知っている べきなのに知らない」と彼女 たちは言います。それが、出 てくる不安や質問の1つです 。そこで、彼女たちを安心さ せて、「みんな忙しいんです 」と言うのです。私たちは皆 、生き残るために必死です。 皆、様々なことに気を配ら なければなりません。だから 、今の状況について落ち込む 必要はありません。まずは 始めてみましょう。今いる 場所から、できることから 始めればいいのです。「 そして、女性特有のもう一つ の問題は、報復や危害、 その他、今や私たちの ほとんどがそうであるように 、オンラインで活動している ときに起こりうる様々なこと への恐怖です。実際、私は 脅迫を受けたり、オンライン でストーカー行為を受けたり したこともあります。 ですから、女性は、特に オンラインだけでなく、対面 でも、こうした議論に発展 する可能性のあるコンテンツ に関わることで、自分自身や 家族が危害を加えられるかも しれないという恐怖をより 強く感じているのです。 そして最後に、私が気づいた ことの一つ、これもまた観察 ですが、現代から現在に至る まで、女性は感情的で男性は 理性的だという文化的な神話 のようなものがあるように 感じます。まず最初に言い たいのは、それはあり得ない ことだということです。この 二つを切り離すことはでき ません。感情的知性と理性的 知性は同じ人間の一部であり 、どちらか一方だけを設定 することはできないのです。 」スポック氏のようになろう とするのはさておき、私たち はバルカン人ではありません 。女性が言われてきたことの 一つは、神から与えられた、 神が大切にしている感情は、 分析的思考や合理性よりも 知能が低いとされていること です。しかし、私が女性に 伝えたいのは、感情的知能も 知能の一つだということです 。つまり、合理性と感情的 知能は密接に関係しており、 実際、両方に注意を払い、 そのように考えることは あなたにとって有益です。 実際、私自身も弁証学を始め た頃は、感情的知能が、私 たちがどのように他者と コミュニケーションを取り、 自分自身を表現しているかを 、人間全体として理解するの に役立つということを理解 するまで、そのことについて 考えたこともありませんでし た。これはペテロの手紙第一 3章15節、いや、実際には もっと広い文脈で言えば、「 柔和と敬意をもって行い、 良心を清く保ちなさい。そう すれば、もし苦しむとしても 、それは善を行うために 苦しむのであって、私たちは 耐え難い存在でした。 ですから、私は女性たちに、 その古い文化的マントラを 見直して、それを分解して、 「いいえ、人間には両方とも 発達させる必要があります。 分析スキルに注意を払う必要 があり、感情を含む形成的な スキルにも注意を払う必要が あります。そうすることで、 ローマ人への手紙12章にある ように、私たちの知性すべて をキリストに向かって変容さ せることに集中させることが できます。 これは、G.K.チェスタトンの 言葉を思い出させます。「 狂人とは、理性を失った人で はない。理性以外のすべてを 失った人である。」つまり、 私たちが理性的な人間である ためには、分析と感情を一緒 にする必要があります。 ええと、最後に、弁証論 という、誰もが気づいている のに誰も口にしない問題 について話したいと思います 。そして、一部の人々が これらの議論を好まない理由 の1つは、「弁証論は確証 バイアスの訓練にすぎない」 と言うからだと思います。 ご存知のように、あなたは プラトンが語ることについて 畏敬と驚きをもって語り始め た旅を始めました。哲学は これらのさまざまな問題を 探求しています。しかし、 ご存知のように、 クリスチャンになると、ああ 、今度はウィリアム・レーン ・クレイグか何かが擁護した この一連の議論を擁護し なければならないように感じ ます。つまり、あなたは もはや正直に真実を探求し たり追求したりするのでは なく、あらかじめパッケージ 化された一連のアイデアを 擁護しているだけです。弁証 論は実際には確証バイアスの 訓練にすぎず、真実を追求 することではないというその 反論について、何かお話 いただけますか。ああ、ええ 、それは 聞いたことがあります。 ネット上の人々はそれをよく 口にします。ああ、これは 確証バイアスにすぎない、と 。「認識論を研究する上で、 確証バイアスを避けるのは 実際にはかなり難しいんです 。ええ、そうです。 それは 全ての人に言えることで、 キリスト教のような特定の 哲学的枠組みを無神論のよう な別の枠組みよりも支持する 人だけに限ったことではあり ません。確証バイアスは厄介 です。ええ、それは教育的 背景など、様々なところから 生じます。例えば、私は教育 的背景を持っているので、 先天性か後天性かという議論 、つまり、どのような養育を 受けたのか、といったこと です。確証バイアスに つながるような事柄が、 あなたが完全に対処してい ない、あるいは気づいてい ない場合もあるかもしれませ ん。ですから、誰もが確証 バイアスを持っていることを 理解する必要があると思い ます。それを完全に克服 できる人はいないでしょう。 それが、先ほどあなたが言及 した「私たち」、つまり認識 論的徳目です。ですから、私 たちは真実を知るために真実 を探求すべきだと認めるだけ でなく、自分たちの現状 について、ありのままに、 そして痛々しいほど正直で あろうと努める必要があるの です。」私たちの思考には 盲点があります。他の人に それを見つける手助けをして もらうことが大切です。 だからこそ、コミュニティが 重要なのです。だからこそ、 キリスト教のコミュニティが 重要なのです。つまり、盲点 について意見を言ってくれる 人がいるということですよね ?ええ、それは一つのこと ですが、認識論的な限界 という別の考え方もあります 。つまり、一生のうちに知識 を確認したり検証したり できる範囲には限りがあり ます。あなたは神ではない ので、すべてを学ぶことは できません。ですから、自分 の限界を知る必要があります 。あなたは神の知識のような あらゆる種類の知識に認識論 的にアクセスできるわけでは ありません。あらゆる種類の 知識とは言いませんが、 あらゆる知識にアクセス できるわけではありません。 ですから、人間としての自分 の限界を認識してください。 検証できることは検証して ください。しかし、人類の 歴史の中で問われたすべての ことに対するすべての答えを 持っている必要はありません 。あなたはたった一人なので 、「わかりません」「それは 調べたことがありません」「 訂正を受け入れます」「自分 が見落としているかもしれ ないことを理解しようとし ます」などと言うことができ ます。何か。認知バイアスに 本当に大きな打撃を与えるの は人間のプライドだと思い ます。一度人間のプライドに 囚われてしまうと、認知 バイアスを乗り越えるのは 難しくなります。 ええ、これは本当に素敵な 締めくくり方だと思います。 メアリー・ジョー、 素晴らしい会話でした。私 たちは多くのことを探求して きましたが、弁証論へのより 包括的なアプローチという 考え方に焦点を当て、弁証論 が実際に私たちを本当に重要 な方法でどのように形作る ことができるかを考えること に焦点を当ててきました。 あなたとあなたのミニ ストリーについてもっと知り たい人は、どこを見ることを お勧めしますか? 私を見つけることができる 場所は2つあります。私の ソーシャルメディアで 見つけることができますが、 searchnational.orgでも見つける ことができます。これは私が 協力している組織で、人生 における大きな疑問について 人々が会話できるように支援 しています。そして、今すぐ リソースを探している場合、 つまり、これらの会話を 始める方法を見たい場合は、 私たちの組織の一部として、 Reachを行っています。リーチ ・ポッドキャスト。YouTubeや ポッドキャストを聴いている プラットフォームで私たちの ポッドキャストを探してみて ください。また、reachothers.org のウェブサイトもぜひご覧 ください。そこには、皆さん が始めるのに役立つ コンテンツがあります。 ブログ記事やビデオシリーズ などです。気後れしたり、 すべてを知っておく必要を 感じたりすることなく、自然 な会話をしたい人にとって、 本当に素晴らしいリソース です。本当に 素晴らしいですね。メアリー ・ジェーンさん、Unbelievableに ご参加いただき、本当に ありがとうございました。